「人はいつ死ぬと思う…? 心臓をピストルで撃ち抜かれた時……違う! 不治の病に冒された時……違う!! 猛毒キノコのスープを飲んだ時……違う!!! ……人に忘れさられた時さ……!」
(出典:尾田栄一郎『ONE PIECE』第16巻)
私は漫画が好きです。
子どもの頃から数え切れないほど多くの作品に出会い、笑い、涙し、人生について考えさせられてきました。
このブログでは、一人の漫画ファンとして心に残った言葉を紹介しながら、僧侶として感じたことを綴っていきたいと思います。
その第一回として取り上げたいのが、『ONE PIECE』ドラム王国編で語られる、ヒルルクの名言です。
ドラム王国編で語られた「人の死」
この言葉は、医者であるヒルルクが、自らの命を懸けながら「人の死とは何か」を語る場面で登場します。
肉体が滅びた時が本当の死なのではない。
誰にも思い出されなくなり、忘れ去られた時こそ、人は本当に死ぬのではないか。
その強い想い・願いが、この短い言葉には込められています。
初めて読んだ時、私も胸が熱くなりました。
きっと、この言葉に励まされ、亡き人を思い浮かべた方も少なくないのではないでしょうか。
『ONE PIECE』に流れる、文化や祈りへの敬意
私は『ONE PIECE』を読み返すたびに、尾田栄一郎先生が世界中の文化や宗教、人々の暮らしに深い敬意を持って物語を描いておられることを感じます。
もちろん、作品は特定の宗教を語るものではありません。
しかし、それぞれの土地の文化や人々の祈りが、とても丁寧に描かれています。
このドラム王国編もそうです。
そして、この後の空島編では、「祈り」や「先祖から受け継がれる想い」が物語の大きな柱となります。
このテーマについては、また別の記事でゆっくり書いてみたいと思います。
人は、忘れてしまう生き物です
ヒルルクは、
「人は忘れられた時に死ぬ。」
と言いました。
私は、この言葉に深く共感しています。
その一方で、僧侶として多くのご家庭とご縁をいただく中で、もう一つ感じることがあります。
それは、
人は忘れてしまう生き物だからこそ、供養という文化が受け継がれてきたのではないか。
ということです。
亡くなった直後は、毎日のように故人を思い出します。
しかし一年、三年、十年と時が流れるにつれ、仕事や子育て、日々の暮らしに追われ、思い出す時間は少しずつ少なくなっていきます。
それは決して薄情だからではありません。
人が前を向いて生きていくための、ごく自然な心の働きなのでしょう。
だからこそ、日本にはお盆があり、お彼岸があり、年忌法要があります。
「少し立ち止まって、あの人を思い出してみませんか。」
そんな時間を、先人たちは暮らしの中に残してくれました。
思い出は、一人ではなく、みんなで育てるもの
法事では、お経の後に親族が集まり、食事を囲むことがあります。
その席では、
「あの時、こんなことがあったね。」
「おじいちゃんは、よく笑っていたね。」
そんな会話が自然と始まります。
すると、一人では忘れていた出来事を、誰かが思い出させてくれるのです。
思い出は、一人の記憶だけでは少しずつ薄れていきます。
けれど、ご縁のある人たちが語り継ぐことで、何度でも甦ります。
だから私は、供養とは「亡き人のため」だけではなく、「今を生きる私たちのため」でもあると思っています。
「先祖代々」と手を合わせる意味
ここで、私はもう一つ、日本の供養文化の素晴らしさをお伝えしたいと思います。
仏壇やお墓には、「○○家先祖代々之霊位」と刻まれていることがあります。
そこには、おじいちゃんやおばあちゃんだけではありません。
三代前、四代前、あるいは名前さえ分からないご先祖さまも含まれています。
私たちは、その方々を直接知りません。
思い出もありません。
それでも、「先祖代々」として手を合わせます。
それは、「知らないから関係ない」という考え方ではなく、
「今ここに生きている私の命は、数え切れないほど多くの命のつながりによって受け継がれてきた。」
ということを忘れないためです。
ヒルルクは、「忘れられた時、人は死ぬ」と語りました。
日本の供養文化は、その言葉に静かに応えるように、名前も知らないご先祖さまにも手を合わせ、「あなた方のおかげで今の私があります」と感謝を捧げてきました。
私は、この文化は世界に誇れる、とても美しい知恵だと思っています。
「仏さま」として、今も共に生きる
仏教では、亡き人とのご縁は死によって終わるとは考えません。
亡き人は「仏さま」となり、今も私たちを見守ってくださる存在として受け止めます。
法事を重ねる中で、
「最初は悲しいだけでした。」
という方が、
「今も見守ってくれている気がします。」
と話されることがあります。
悲しみが消えるわけではありません。
けれど、その悲しみは少しずつ感謝へと変わり、
「頑張っている姿を見てもらいたい。」
「恥ずかしくない生き方をしよう。」
という思いへと育っていきます。
私は、それも供養が私たちに与えてくれる大きな力だと感じています。
仏教が大切にしてきた「安心(あんじん)」
仏教には、「安心」と書いて「あんじん」と読む言葉があります。
それは、悩みがまったくなくなることではありません。
別れや悲しみを抱えながらも、仏さまの教えを支えとして、「これでよい」と心の拠り所を得ることです。
供養は、その「安心(あんじん)」へと私たちを導いてくれる大切な営みでもあります。
亡き人を思い出し、語り合い、手を合わせる。
その時間は、亡き人のためだけではなく、残された私たちが命のつながりを感じ、また明日を生きる力をいただく時間でもあるのです。
ヒルルクの言葉に、仏教者として一つだけ添えるなら
ヒルルクのこの言葉は、多くの人が亡き人を大切に思う心を、美しく表現した名言だと思います。
その上で、仏教者として一つだけ言葉を添えるなら、
「人は忘れる。だからこそ、人は思い出す日を大切にしてきた。」
ということです。
法事やお盆、お彼岸は、亡き人を忘れないためだけの日ではありません。
亡き人とのご縁を確かめ、遠いご先祖さまへも思いを馳せ、自分の命が多くの命のつながりの中にあることを感じる日でもあります。
そうして少しずつ、「悲しい別れ」は「今もつながっている」という実感へと変わり、私たちの心に安心(あんじん)が育まれていくのだと思います。
ヒルルクは、「人は忘れられた時に死ぬ」と語りました。
そして日本には、亡き人を忘れないだけでなく、会ったことのないご先祖さまにまで思いを寄せ、その命のつながりに感謝する文化が受け継がれてきました。
私は、その文化をこれからも大切に守り、次の世代へ伝えていきたいと思っています。
住職のひとこと
私は漫画やアニメが大好きです。
作品の感想や解釈に正解はありません。
このブログも、一人のファンである僧侶が感じたことを綴ったものです。
この文章が、好きな作品について語り合うきっかけや、大切な人を思い出す時間につながれば、これほど嬉しいことはありません。
※この記事は、尾田栄一郎先生の作品『ONE PIECE』への敬意を込めて、一人のファンである僧侶が感じたことを綴ったものです。作品の解釈は人それぞれであり、本記事はその一つの受け止め方としてお読みいただければ幸いです。



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